港の朝は早い、夜明け前から漁師たちは仕事を始める、港に停泊するとたいていはその音で目が覚める、いつもの日課で船の周囲、係留ロープをチェックする、前のスタンドの店員もバイクで出勤してきてこちらを向いて元気に挨拶をする、漁港の朝はみんな早いのだ。皆も起きて来たので朝の散歩を兼ねて隣のフェリーターミナルにコーヒーを飲みに行く、鹿児島からの便が入るまでまだ一時間も間があるので建物の中は孫と遊んでいるお婆さんしかいなかった。モーニングセットを食べ終わる頃にはターミナルの中のお客も段々と多くなって来た。

 船に戻り出発の用意をする、左右のエンジンを掛ける街路樹に結んだ舫いロープを解くだけで船は岸壁から離れる、充分離れたのを見届けて右のシフトレバーを前に倒す、船はゆっくり船首を左に振ってゆく、ちょうど出口に向いた所で左エンジンのシフトレバーも前に倒す、船はそのまま出口に向かって滑りだす、港を出終わった所に鹿児島からのフェリーが入れ換わりに入港してきた。たった一日の滞在であったが素敵な思い出が作れた種子島を後にした。
 次の島は屋久島である、標高1935メートルの山頂は冬には積雪があり『山頂は雪山、麓は亜熱帯』という日本の北から南までをぎゅっと凝縮したような不思議な島なのだ、樹齢数千年の杉の巨木で有名だ、猿も鹿も生息している、今日は生憎7合目より上が雲に隠れていて山頂が見えない。
 種子島からの距離は25マイルしか離れていないので1時間30分で着いてしまう、ついさっき種子島を出たばかりだ、そこで屋久島を通過して80マイル先の中之島まで行く事にする、中之島までは約5時間の行程だ、今日停泊するのには丁度いい距離だ、その間に通過する島々は馬毛島、屋久島、口永良部島、口之島そして中之島となるのだ。

 種子島で買ったガイドブックで調べると無人島のデータは記載されていない、これから行く中之島を調べて見ると次の様な事が解かった。
 島の人口は約150名、物を売る店は無いが6坪程の建物で生活センターという場所があり朝夕2回1時間だけ開くそうだ、商品は日用雑貨程度で食材はインスタント食品しか無いらしい。電気は日本の島では珍しい水力発電で各所帯に供給されている。温泉が西と東の海岸の道路沿いに2か所あり村が管理していて誰でも無料で利用できるが無人であること、トカラ馬の放牧場があること、という事がわかった。あまりにも、何も無い所らしく一抹の不安を感じるも、みんなのリクエストの温泉はここにしか無い、今日で5日間も風呂に入っていないので無性に風呂が恋しくなる、一刻も早く温泉に浸かりたい。
 船には温水器が完備されていて何時でも温水シャワーが使えるがトカラ列島で給水出来る所が無い、それを考えると船の水を使う気にはならない。

 そろそろ屋久島の南側、安房の港が近付いて来た、ここから針路を236度に取る、右に安房川に掛る大きな橋が見えている、中之島までの距離は50マイルだからどうせ昼までには着かないのでエンジンの回転数を100回転下げる、船全体が少し静かになる。『お昼はカップ麺です』と下から杉中の声がする、そう言えばここしばらく食べていなかったのを思い出す、ほどなくお盆の上に乗った3つのカップ麺の出前がフライングブリッジに届くオートパイロットのスイッチを入れてステアリングから手を離し早速熱いうちに食べる、廻りを見渡すと遠く連なる島々以外は何もない。相変わらず思い出したようにトビウオが海から飛び出て長い距離を滑空する。

 午後2時過ぎ中之島に近付く、島の南の先端、ジンニョム岳を真横に見て灯台を大きく迂回し北に回り込む、この辺は洗岩が随所にあるので要注意だ、中之島港まであと4マイルだが窪んだ地形にあるためにまだ港は見えない、だんだんとそれらしい物が見えてくる。
 この港も定期船『フェリーとしま』が立ち寄る港である、南北に防波堤が500メートル延びている、南から入港して付きあたりで袋状になっている、自然の地形を利用した良港だ、ただし建物は何も無い、さらにその奥に漁船専用に作られた漁港がある、サンフィッシュはゆっくり奥まで進む、漁港の中央で180度Uターンして船首からアンカーを入れバックで岸壁に近付く、ロープの端を持って一人が船尾から岸壁に降りてビットに係留する、その時クルーの里子が悲鳴に近い声で『見て見てカメカメよ』と水面を指して叫んでいる、見ると信じられないような大きなウミガメが、しかもタイマイがこんな港の中で泳いでいるではないか、この奇跡の様な情景に暫く見とれていた。
 やっと一息ついて改めて周囲を見渡したが人の姿はどこにもない、人の声も物音もしない、静寂につつまれた港だ、例によつて船体を真水で流す、アイボリーカラーに塗装されているゲルコート本来の光沢がみるみる蘇って見違えるほど綺麗な船になった。

 ガイドブックでしらべておいた『西温泉』に行く事にする、港から崖に沿った地道を300メートル行った左側らしい、日が落ちるのには時間があるが念のため懐中電灯だけを持って行く、5日以上風呂に入っていないので期待は大きい、手に石鹸とタオルを持って歩く格好は子供のころ近所の銭湯に行ったことを思い出した。車や人が全く通らない300メートルの道は思った以上に遠く感じる、やがて裸電球が付いた小さな建物があった、廻りを見渡してもこれしかないので中に入ってみる、がらーんとして誰も居ないが間違いなく温泉の匂いがする、電気のスイッチを探して明りを点けて見る、確かに温泉だ建物の真ん中が板で縦に仕切られていて男湯と女湯とに分かれている、中央に岩風呂の様な湯船があるがお湯が入っていない、張り紙に書いてある注意書きに従ってバルブを操作して湯船にお湯をいれる、水しか出て来ないので心配したがやがて熱くなって来たのでホッとする、お湯が入るまで結構時間が掛りそうだ。
 外はいつの間にか暗くなっていた、明りが点いているのはこの建物の裸電球だけだ、やがて湯も入りやっと湯船に浸かる、確かに天然の温泉だ、温泉特有の匂いと湯の温もりに思いっきり手足を伸ばし解放感に浸る、温泉を独り占めしてリッチな気分になる、5日間の汚れと疲れを洗い流し湯船から上がる。

 入口の脇に小さな木箱が置いてあり献金箱と書いてあり貯金箱のようなお金を入れる穴が空けてある箱の上の張り紙に『この温泉は村で管理運営しております、少しでも寄付をお願い出来れば助かります』と書かれて横に住所、氏名を記入する奉加帳が置いてある、生憎私たちはガイドブックの記述を鵜呑みにして三人とも10円のお金も持たずに来てしまったので今日は入浴料3人分お借りして帰ります、次回は必ずお持ちします。
 此処に来てかれこれ1時間は経つが人は誰も来ない、帰る際も注意書きに従って湯船の湯を落としすべての明りを消して外に出る、明りが消えて辺りは真っ暗だ、ボートに帰る道を一歩踏み出して立ち止まってしまった、真っ暗で道が全く見えないのである、急いで懐中電灯を照らす、懐中電灯を持って来ていなかったらどうなっていたか、左が断崖の細い道を300メートルも歩いて帰る自信は無い、街灯が全く無い道だ、懐中電灯を頼りに来た道を恐る恐る引き返すと、途中から不思議なことに、ぼんやりと道が浮かびあがる様に見えだしたのだ、暗闇に目が慣れて来たせいなのか、いや確かに道が見える。
 この不思議な現象は何だろうと近付くとやがてその謎が解けた、ホタルなのだ、右の山の斜面に沿って小川がここから始まっていたのだ、なだらかに港まで下る道に沿って小さな小川のせせらぎが聞こえる、その小川の上をホタルが乱舞しているのだ、船に帰って今見て来た神秘な世界を暫く話し合ってこの島の良さを認識した。
 船を出る前にタイマーで仕掛けておいた炊飯器のご飯が炊けていた、今夜はレトルトカレーを温めて食べる、船の明りをすべて点けて。