台湾の桃園の造船所に発注したボートは1年後の3月完成が近付いていた、約束通りエンジンを積み込む段階で総額の三分の一を支払い完成時に残り全額を支払う契約になっている、その支払い完了後造船所から出荷となるのだが日本までの輸送方法は貨物船に積み込んで神戸に着く便があるとのことで手配を頼むことにした、運賃は日本円で235万で交渉して船の代金の最後の送金の時に船の運賃を含めて送金することにした。
 やっと完成にこぎ着けたがこの1年は大変だった、1年間で台湾に8回も足を運んだ、日帰りで往復したこともある、空港の税関の職員とも顔見知りになったほどだ、どうしてそこまでしたかと言うと、家の建売住宅を買うのと注文建築の違いに似ている、建売住宅では天井裏、床下、壁裏の断熱材などあまり見えない所のチェックは難しいが注文建築の場合は確認しながら工事を進められる、船を作る工程で手抜きがあれば船では命に関わる事もある、そのころ『台湾のプレジャーボートは仕上がりが粗悪だ』、という噂も流れていた、確かにそういう造船所があったことも事実である、中古のエンジンを塗装して売りつけても素人には分からない、少しでもリスクを減らすためにも工程をこの目で確かめるのが一番確かである、時には床材の素材、厚み、機器類の配線に至るまでチェックした、走行中に火災が発生した例を偶然目撃した事もあるからだ。

 春分の日の前日、船が神戸港の六甲アイランドの岸壁に着いた、5,000トン程の外国船籍のフェリーで運ばれて来た、船員の大半がフィリピン人であることが言語から覗える、書類をバインダーに挟んだものを持つ船員に近付いて、この船に積んであるボートを受け取りに来た船主である事を告げると巨大なフェリーの中に案内してくれた、いくつかのコンテナの奥に太い角材を組んだ船台の上にボートの一部がチラッと見えた時はまるで久しぶりに恋人にでも会う様に胸がときめいた、12月の初めに最後の打ち合せで台湾に行った時以来だから4ヶ月半振りの再会だ、船全体が台湾製品によく使われている赤、白、青、3色の大きなビニールシートで覆われていた。
 数人の船員が船台を固定してあるワイヤーケーブルのシャックルを手際よく外し巨大なフォークリフトで重量が10トン以上あるボートを軽々と運び出した、それはあっと言う間の出来事のように早い作業だった、六甲アイランドの通関手続き専用のバースに船台を降ろしコンテナ船は早々と岸壁を離れて神戸を出て行った。待ちに待った船がやっと届いた、船を見上げて暫く安堵感で呆然自失、気が抜けて次の行動に移れないでいた。

 次は通関手続きである、前もって調べておいた神戸の通関事務所に向かう、事務所に着いたのが午後2時を過ぎていた、受付で用件を告げると奥のデスクに通された、ここでの用件は積み荷の検査と消費税の支払いである(ボートは物品税の対象外で掛らない)、すでに台湾の造船所からすべての書類が届いていた、造船所が売った金額を意図的に圧縮してくれてあったので消費税が少し助かった、自己申告が通る世界らしい、積み荷検査は明朝という事で手続きはあっけなく終わった。
 帰り際『あの船を置いてある場所は夜になると暴走族が横行していて、いたずらが絶えない所なので、もしよかったら警備会社を紹介しますよ』と言われたが丁重に断って自分で夜警をすることにした、出来るだけ出費を抑えたい、船は会社名義で購入しているがこれまでの支出はすでに5000万円を超えている。通関事務所を出て、来た道を真っ直ぐ六甲アイランドに引き返す、まだ日が高いので船台をよじ登り船内で積み荷などを点検しながらふと頭をよぎった、『禁制品を密輸する気なら簡単に出来そうだ』、船がこの場所に降ろされて積み荷の検査まで丸24時間空き地に放置したままだ、しかも人も通らない不気味な港の外れなのだから。
 夕食には少し早いが芦屋の国道一号線沿いのファミリーレストランで食事を済ませ途中でコンビニに寄ってスナックと缶ビールを買い込んで船の場所に戻る、春分とはいえ夜は真冬並みに冷える、車の暖房を効かせて徹夜に備えることにする、結局朝まで何事も起こらず夜が明けた。

 3月21日、今日は春分の日である、近くのコンビニで缶コーヒーとサンドイッチで朝食を済ませて現場に戻り船の中を片付けていると9時を少し過ぎた頃一台の車が停まり作業服姿の年齢は40前後の検査員が書類とメジャーを携えてやって来た『お早うございます今日は寒いですね、早く終わらせましょう』と言いながら検査を始めた、殆ど形式的で書類とボートの中に積んでいる物を照合しながら10分程度で終わった、空港の税関で行う検査に似ている、終わりにサインをした書類を手渡し『これで終わりです御苦労さまでした』と車で来た道を帰って行った。
 そのあと近くにある港湾荷役の事務所を訪ね、ボートを岸壁から海に降ろしてもらうのを頼みに行った、受付で通関手続きが終わった事の書類を事務所に提示する、料金の査定は簡単だ、トン数で決められた料金を支払うだけだ、岸壁から降ろせるのは明日の午後2時ごろと言われたので料金を払い、今日は一度事務所に帰り夜遅く再び夜警に来ることにした、その夜もカップルの乗った車が近くに停まっただけで何事もなく夜が明けた。

 近くのファミレスで朝食を済ませボートを水面に降ろす準備をする、ボート全体を覆っているビニールシートを取り外し神戸から西宮まで航行するので燃料の確認をする、ボートを水に浸けるまでに地上で一度エンジンを掛けてみる、左右両方のエンジンとも問題なく掛った、タンクの燃料もゲージの針が200リットルの所を指しているので2時間は走れる、西宮までは馴らし走行でゆっくり走っても30分程度だ。
午後2時過ぎ3人の作業員が来てテキバキと作業を始める、慣れたものである、フォークリフトとガントリークレーンを操作してアッと言う間にボートにベルトを掛けクレーンで釣り上げ海に着水させた、水の上で初めてエンジンを掛ける、軽快なサウンドと振動がステアリングに伝わる、シフトレバーを前進に入れてスロットルを徐徐に倒して速度を上げる、750馬力のヂーゼルエンジンが身体を後ろに倒れさせるほどに沈ませる、まだ冷たい早春の海風が上気して火照った顔に心地よい、岸壁に乗り捨てたトヨタマークUは夜にでも取りに来よう、六甲アイランド沖の海上を疾走する快感を味わっていた。