3日目夕刻、四国沖60マイル(推測)で山の稜線を発見する、島や山の上には必ず雲が掛るそれを目当てに陸地を探すのだ、その山が四国かどうかまだ分からない、まずDF(方向探知機)で調べてみる、足摺と室戸から電波が出ているのでその種類が合致するかを全国灯台表で確かめる、四国に間違いないと確認すれば後は四国までの距離を知りたい、DFで測ってはいるがDFの誤差が大きいので当てに出来ない、正確に知るには日が暮れてから室戸岬灯台の光を見付けることだ白色の閃光10秒間隔その光が水平線上に見つかれば室戸までの距離は26マイルということがハッキリする、地球は丸いので26マイル以上離れると水面下に隠れてしまう、みんな閃光を見付けては声に出してカウントを始める、カウントが10以上でも10以下でも違うのである。海図の表記(Fl.w10sec154m26Mを解説すると、Flはフラッシュで閃光、wは白色、10secは10秒間隔、154mは標高154メートル、26Mは26マイルまで届く距離を表す、灯台が高い場所にあるほど遠くから見えるのだ、この灯台は明治32年に設立されて以来ずっと航海者に希望の光を照らし続け、またある時は幾多の遭難の悲劇を見て来たことだろう。

 暫くして視力のいいのが自慢の学生が大声で『ありました、ありました』を連呼した、みんな一斉にその方向の水平線にある小さな閃光が光った瞬間を見据えて声を揃えてカウントを始めた、閃光は一瞬で消え、つぎ閃光までの間隔をカウントするのである『5・6・7・8・9・10ヨッシャー、やった、やったぁー室戸まで26マイルを切った、4時間で通過出来るぞ』、と、ステアリングを持つA班のスキッパーが奇声をあげて吠えた。

 午後9時を過ぎようとする頃から穏やかだった天気が一変する、パラパラと雨が降り出し北東の風がだんだん強く吹き始める、クルー達は交代でカッパを着込みストーム(嵐)に備える雨も本格的に降り始め風は船の正面から吹き付ける様に強くなる、風に向かっては進めないので右へ45度か左へ45度船の向きを変えて風を受ける側を変えなければならない、この動作を『タッキング』という、省略してタックという、特にこのような危険な海域を通過する場合は針路から大きく外れないよう小刻みにタックを繰り返す、ときには2〜分3分ごとに繰り返される、その都度スキッバーは風と雨と波しぶきの中、全身の力を込めて『タック』と叫ぶと同時に船の針路を90度変える、メインセールに固定されたブームは人間一人の力では持てない様な太くて重いブームが風を孕み唸りを上げてクルー達の頭の上を横切る、クルー達はそれを躱し素早くジブ・メイン・ランナーのシート(ロープ)とウインチを操作してベストな角度にセールを調整(トリム)する、それが終われば風を片側のセールに受けて船体が傾いてるのを立てようと風を受けている側のスタンション(手摺り)に掴まり片舷に並んで人の体重で少しでも船を起こそうと努力する、船は傾くほどにセールから風が逃げ船の速度が落ちるのだ、これを何度も何度も・・・、1時間も繰り返すと人間の身体も限界に近付く。

 雨風がさらに強くなったので、ジブセールをストーム(嵐し用)に変え、メインセールを2ポイント縮めて風を受ける面積を小さくする、さもないと船が転覆しないとも限らない、限界は誰にも解からない、其れを判断するのがスキッパーで彼の豊富な経験と判断にすべてが掛っている、室戸岬の灯台が見上げるほどの角度まで近付いてきた、10秒間隔で光る閃光が大時化の波がしらを一瞬照らしてまた消える、灯台下の断崖が黒々と聳え立って、見るたびに大きくなるようで不気味だ、あまり近くに寄れない岩礁だらけの場所だ、更にタックの回数が神経質に多くなる、若くて視力の良い学生が懐中電灯で船首方向の海面を照らし時折『10時方向20メートル先岩』と声が飛ぶ、私は計器のエコーサウンダ一(水深計)のデジタル表示を絶えず声を上げて読み取る『水深13メートル、11メートル、14メートル・・・』10メートルより浅いと危険だ、今が正念場一瞬たりとも気が抜けない、灯台を見上げる角度が更に高くなり岩場に当たって砕け散る波の轟きが恐怖心を駆り立てるように一層大きくなった、身が縮む思いだ、灯台の一瞬の閃光に牙を剥いた岩が迫り来る様に見える。
 ヨットには船底にバラストと言うものがある(キールとも言う)。この船も長さ1.5メートル重さ1,000キロのバラストがついている、そのおかげでどんなに船が傾いても基に戻る復元力が生まれるのだ、しかし浅瀬を航行する時はこのバラストが一番の障害になる、暗礁にでも乗り上げたりするとひとたまりもなく、ヨットはダメージを受け悪くすると浸水、沈没もありうる。これ以上近付くのは危険だ、最後の岩礁を避けるようにタックし終わって針路を真北に変針、越えた、やっと悪魔の様な室戸岬を越えた、やっと通過した、緊張していた身体から一遍に力が抜ける。

 船首45度の風を受けて船は大阪湾目指して真っ直ぐ北に進む、紀伊水道に入った、身体が鉛の様に重い、喉もカラカラだ、恐怖の修羅場を抜けてきた安堵感からか、誰の口からも言葉が出て来ない、誰も口には出さないが一様に『助かった』と思う気持ちが頭をよぎっているに違いない、一人が立ち上がってストームジブをレギュラーに交換しメインセールの縮帆を解除している。
 紀伊水道、大阪湾を経て沖縄を出てから5日目の朝、神戸にトップでゴールした、5日間の長くて辛い戦いは幕を閉じた、デッキの上ではクルー達が抱き合ってお互いの健闘を讃えあった、その眼には熱く光るものがあった。若い学生は汚れた顔をくちゃくちゃして桟橋にガールフレンドの姿を探していた、彼も間もなく社会人になる、このヨットレースで経験した皆で協力して過酷な試練を乗り越えた事を思い出して社会に生かしてほしいものだ。
成績は修正で2位だったが、一生忘れられない思い出を残せたことの満足感を胸に、クルー達はヨットハーバーを後にした。後で解かったのだがこのレースに参加したヨットのうち三分の一のヨットが途中九州や四国でリタイヤしていたが命に関わる事故が無かったのが幸いであった。

 これが今から24年前の室戸岬での思い出である、24年前と今とでは世の中随分進化したことを改めて感じる。奄美大島に向けて航行を続けているサンフイッシュ号は午前10時に足摺岬を真横に見る地点で針路を230度に変針、油津港まではあと105マイルのところまで来た、時速15ノットで走ってあと約7時間程度、午後5時ごろには港に着く予定だ、まだ充分日が高いうちに油津に入港出来そうだ、足摺岬から九州宮崎県の標高1,000メートルを超える高千穂の峰々がうっすら前方に確認出来る。100マイルも離れた対岸の宮崎はまだまだ視認できる距離ではない、見渡す限り何もないのでオートパイロットを230度に設定してスイッチを入れる、これでスイッチを切らない限りどこまでも230度で走り続ける、ただし周囲に対する安全確認(ワッチ)は怠ってはならない。三人のうち一人は常に見張りをするというルールをしっかり守って航行している。早朝出港した時着込んだヨットパーカ―を脱ぎ捨てて半袖一枚になっても快適だ、南下するほどに気温もぐんぐん上がる。クルーの杉中が冷蔵庫の缶ビールと里子が作ってくれた昼用のおにぎりを取りにキャピンに降りて行った、CDディスクを挿入たプレーヤーからTUBEの夏バージョンの曲が温かい潮風とミックスしてフライングブリッジをさわやかに流れる、夏を間近に感じる高知の海だ。