ところでレーシングヨットにはどのくらいのセール(帆)が積み込まれているかご存じだろうか、セールは風の種類、気温、風の強弱によって(生地が厚いもの薄いものを)使い分ける、同じ風速でも夏と冬では強さが違う、空気が冷えると密度が濃くなって空気が重くなる、ヨットは冬の方が早く走るのだ。夏使用したセールを冬に使用すれば破れたりする、それらを判断するのも経験を積まないと分からないので難しい、したがってレーシングヨットには10枚〜20枚ものセールを積んでいる。またセールは同じものを永遠に使えるものではない、風の強さ、使用頻度によっては形が変形したりメッシュが伸びたりして使えなくなる、つまりレーシングカーのタイヤと同じで使い捨てなのだ、大きい物だと1枚20万円〜50万円もするセール(帆)を数回レースに使用しただけで廃棄することだってある。
 キャピンの中はセールを入れた袋(セールパッグ)でキャビン(船室)の三分の一がセールで占領されているのだ、仮眠をとる場合はセールパックに埋もれるような格好で仮眠する。
居住性や便利さ快適さはこのキャビンからはすべて排除されて作られている、窓さえないのだ、ただひたすら走るための性能だけを重視して作られているのだ。

 そう言えは゛レーシングカーも何億もお金をかけてあるわりには何も無い。今回参加したヨットの中にカーボン繊維で艇本体を成型したヨットが参加しているが勿論造船価格も破格で数千万と噂されている、そのキャビン(船室)にはギャレイ(キッチン)もなければトイレすら無いのである、トイレはポリバケツで用をたした後海に捨てるのだそうだ、そのヨットに美人の女性クルーが乗っているから立派だ、飲料水も必要な量を計算してポリ容器で積み込むという。
 そのヨットが沖縄をスタートするとき携帯用のプロパンガスボンベをクルーがうっかり積み忘れたのだ、それからフィニッシュするまでの5日間、飯も炊けず暖かい飲み物もなしで固いままのインスタントラーメンをかじり水で空腹をしのいだという。
われわれの乗った『コテル』もプロパンガスこそ忘れなかったが水を極端なまで切りつめて積み込んだ、20リットルのポリ容器5個、8名が5日間で合計100リットルだ、このために使用するのは主に海水を使う、お米をとぐ時、トイレの水を流す時、手を洗う、歯を磨く、すべて使うのは海水だ、米をとぐのは海水でも最後には真水を入れないと塩辛くて食べられない、カップラーメンは真水をヤカンで沸かして使うしかない、いろいろ試してみた結果一番合理的なのは具を入れて炊いたお粥である、これは少し塩味が効いていておいしいのだ。
 食品のうち、一番水を使うのはカップラーメンで、お湯を少なくすると味が濃くなり駄目である、容器いっぱいにお湯を注いで食べるしかない、食べ残したスープは捨てるしかない。水の心配が現実となったのはそれから4日目、気が付けばポリ容器の水がわずか3リットルにまで減っていた、雨が降ってくれればセールをデッキの上に広げて雨水を集めて使う事も考慮したのだが降らなかった、一刻も早くフィニッシュできるよう天を仰いで祈るのみだ、結局翌朝フィニッシュできたのだがもう一日フィニッシュが遅れていたらと思うとぞっとする。

 与論島を過ぎ沖永良部島に掛るころには夜のとばりに覆われた空が満天の星空に変わり新月の空に輝いていた、いつのまにか風が止み海面は油を流したようなべた凪になって天空の星すべてが水面に転写して海と空の区別のつかない不思議な世界になっていた、どこまでも深く暗く4,000メートルの海の底まで夜光虫が光りを放ち幻想の世界に迷い込んだようだ、これは体験したものしか分からないだろう。
船も波も風も生物も動きを止めた、まったく音のない世界を体験していた。突然、目の前で大きなブローが起こった、懐中電灯に照らし出された丸い輪ののなかに大きなウミガメの頭があった、深い海から息継ぎに上がって来たらしい。

 今夜の船上のディナーは本部で買ったおにぎりだ、揺れている船の上ではおにぎりが一番だ、食器も箸も不要だ、ゴミも出ない、すべてのゴミは陸に持ち帰らなければならない、海上投棄はご法度だ、スタート前に弁当屋に作ってもらったのをデッキに広げる、弁当屋に『梅干を入れますか?』と聞かれたので慌てて、中身をおかかに変えさせた、昔から梅干の種を海に捨てると海の神が怒って海が大荒れになると云うジンクスがヨットの世界にあるのを思い出したからだ。今まで口にしたことがない初めて食べる漬物が添えてある、パパイヤの漬物だそうだ。
 午後9時、もう2時間も風が止まったままだ、すべてのセール(帆)がだらーと下に垂れたままで動かない、とうとうスキッパーはステアリングを何度も左右に回しラダー(舵)を左右に揺すって舵をばたつかせ少しでも船を前に進めようと試みたがすぐ無駄に気付いて諦めた。

 全員が手持無沙汰で何もすることがない、Aチームの大学生のM君がカセットラジオを持ち出してきて山下達郎のカセットテープを聞き始めた、それを合図のように全員がデッキに寝転がり星空を見上げながら小さい声で歌に合わせてハミングしたり手足でリズムをとりはじめた、とてもレースの最中とは思えない雰囲気だ、ナビゲーターの私だけがチャートテーブルの上で計算と作図に追われていた、もうすぐ午後10時、短波ラジオでNHKの気象通報を聞いて天気図も取らなければならない、このあたりの海域は黒潮が約2ノット以上で北方向に流れているはずだ、このまま10時間流されたとしても次の島、徳之島まで届くかどうか、038度方向にある徳之島の灯台を夜の間になんとか見付けることが出来れば位置が割り出せるのだが・・・。

 右側の遥か洋上に紅色の明りが一つ見える、その紅灯を挟むように白灯が2つあるので全長が50メートル以上の貨物船がこのヨットと同じ方向に走っているのがわかる、夜間は船の灯火で船の種類、大きさ、進む方向まで判断出来る様になっている、このルールは何百年も前から今も変わらない、面白いのは船のルールが飛行機にそのまま転用されている事だ、右の翼の先端には緑灯、左の翼の先端は紅灯が点いている、船では電気が発明されていなかった昔も色ガラスを張り付けた箱の中で鯨の脂肪を燃やして続けられて来たのだ。

 夜明け前に風が吹き始めた、風は北東に変わり風速は2〜3メートルだ、ジブセールをゼノアーに変える、上り角度でコースはぎりぎり維持できそうだ、夜が明け始めてやっと340度方向に徳之島を見付けた、距離は推定で島まで6〜7マイルは離れているだろう、小さく建物の屋根が見える、デッキで仮眠しているものも起こして通常のワッチにもどす、さあ戦闘開始だ、明るさを増した水平線の上を双眼鏡でセールを探す、やはりライバルが気になるが見渡す限りセールは見えない、皆どこにいるのだろう。

 結局昨夜は一睡もしていなかった、5月とは言え夜明け前気温は13度まで下がっている。レース2日目天気はうす曇りながら時折日も差し風も東北東3〜4メートルと安定している、正午12時に六分儀で太陽を測り緯度を計測する、時折タッキングをしてコース修正をするが、ほぼ上りコースで行けそうだ、今日は順調に距離を稼げる予感がする。今からの予定のルートは奄美大島と喜界島の間を抜けて平均6ノットで走れるとして24時間でトカラ列島沖、3日目の夜にやっと室戸岬沖に辿り着ける計算だが・・・あとは風次第だ。

 オフショアーレース、外洋ヨットレースは時に思わぬ事故に見舞われる、この沖縄⇒神戸レースの一年前、沖縄⇒東京レースがあった、このレースで落水による行方不明者が出ている、大時化で夜間の落水は絶望的とも言える、自然を相手にするかぎり山も海も危険は付いてまわる。ましてやレースでは限界を超えることもしばしば起こる、自然の驚異は予測できないからだ、正しい判断と自己責任において困難を乗り越えていかなければならない、リスクを少しでも軽減するには経験を積む以外にない、それらの苦難を乗り越えてこそ達成感と自分でも気が付かなかった自信と誇りを掴むことができる。これらのレースには賞金も景品も出ない、だけど彼らはお金では買えない素晴らしい思い出を経験するがことが出来るはずだ。

 ヨーロッパの有名なヨットレースで実際にあった話なのだがこんなエピソードが残っている。このレースに世界各地からの100隻を超える参加艇があった、ところがこのレースの最中とんでもないアクシデントが起こったのだ、季節外れの低気圧が発生し30隻以上が強風で転覆または沈没し数名の死者まで出てしまったのである。即刻イギリス空軍が救助要請を受けて現場に急行し何人もの尊い命を凍る海から救助した、その際、遭難者の救助に当たっていたヘリコプターの機長がこんなコメントを残している。『不幸な事故が起きてしまって残念です、私が今一番心配しているのはこの事故によって伝統のあるこのヨットレースが無くなる事だ』とメディアに対してコメントをした、ヨットに夢中になっていた当時の私は涙が出るほどうれしかったことを覚えている、これがもし日本でこのような事故が起こったらどうだろう、関係者はとことん非難され開催したこと自体が責任問題になるだろう。