この室戸岬灯台を通ると今から24年前の記憶が鮮明に蘇ってくる、それは1975年(昭和50年)5月のことだった。その年、沖縄で沖縄国際海洋博覧会が開催された、開催地国頭郡本部町の沖合250メートルにアクアポリスというシンボリックな半潜水型構造の建物が作られた、それは陸から先端のアクアホールまでアクア大橋で繋がっておりその先にある円筒型で大型の展望施設なのだ。アクアホール本体には浮力を持たせて通常は海面上に浮いているが台風時にはこれに海水を注水し本体を沈下させて風や波の抵抗を軽減する構造になっている画期的な建物だ。
 このイベントを記念して沖縄から神戸までのノンストップ無寄港ヨットレースが行われた、沖縄から⇒神戸までのヨットレースの参加艇は25隻、北は北海道、南は九州まで全国から沖縄に集まった。私が所属していた関西ヨットクラブからは5艇が参加した、私の乗る艇は52フィートのレーシングヨット、船名が『コテル』オーナーは輸入肉屋の社長である。

 なぜ私にオファーが掛かったかと言うとその頃1975年、まだカーナビや携帯に使われている便利なGPS(グローバル・ポジショニング・システム)衛星航法が出来ていなかった、当時主に使用されていた航海システムの殆どが地上に設置されているアンテナから発射される電波を利用していた、その主なものは『デッカ』『ロラン』『DF』(第2次世界大戦の終結まで『ロラン』が使われていた)などで、使用するのが複雑でおまけに誤差が大きく高価だった、ヨットマン達は一番安く買える『DF』(ディレクション・ファインダー)を競って買って船に積んだ。 この器械はラジオの電波に指向性があるのを利用して3つの異なった局から発する電波の交わったところが自分の位置である、という原理を利用したものであるが電波は夜と昼とでも誤差が生まれるのでせっかく苦労した末、算出した船の位置が山の上という事もごく当り前のようにあった。
その頃ヨットハーバーで唯一天測、六分儀を使って太陽や星から海上の船の位置を計算することが出来るほか、航海に必要な技術に精通していた私にナビゲーターとしてオファーが掛ったのだ、オファーの条件は最高のステーキを食べさせると言う条件であったがステーキの話は別として5月の連休の初日、私は紺碧の沖縄の海を疾走する『コテル』の船上にいた、その日から神戸到着までの5日間、過酷な海上のバトルが繰り広げられるのである、午後1時を合図に、沖縄海洋博覧会アクアポリスを25艇のヨットは一斉にスタートした。

 ここでヨットレースについて簡単に説明しておくと、ヨットにはそれぞれ異なった船の大きさがあるが、船体の大きいものはそれなりにセール(帆)の面積も大きくなる、大小異なった船が、同じエリアの海で同じ風を受けて走るとするとセール(帆)面積の大きい船の方が有利なのは当然で、そこで一艇ずつ、セール(帆)の面積、艇の水を受ける面積、艇の全長、船の重量などを、専門の計測員が計測計算しデータを作成してレースにおいてのハンディキャップを船ごとに設けるのでゴールを一位で通過しても優勝とは限らない、フィニッシュした時間に修正時間を計算してはじめて順位が公表されるのだ。このレーシングヨットのデータの内容はすべてが(財団法人)日本外洋帆走協会に登録されている、ヨットには必ずエンジンが搭載されているがレース中にエンジンを使用した場合は失格扱いになり、リタイアしたものとして処理される。

 ところで東京都都知事の石原慎太郎と石原裕次郎兄弟が熱烈なヨットマニアであったことをご存じだろうか。
日本でクルージング型のヨットがまだ珍しかった頃、神奈川県三浦半島に石原兄弟が所有するコンテッサ(伯爵夫人)一世号が油壺のベイ(湾)に浮かんでいた、その名前に相応しい優美な姿を当時のヨットマンたちがどれほどヨットで遊ぶ兄弟の姿を羨望の眼で見詰めた事か・・・1955年慎太郎が短編小説『太陽の季節』を発表、第一回文学界新人賞に、翌年34回芥川賞を受賞、1956年『太陽の季節』が映画化、主役は南田洋子・長門裕之だったが裕次郎も端役で映画にデビューすることになった。

 映画スターとしての人気も出始めた7年後の1963年、裕次郎のヨットの経験を生かして制作された映画『太平洋ひとりぼっち』を市川崑監督のもとに主演することになるのだ。
この映画は兵庫県西宮の港を5メートル足らずのベニヤ板で作った小型ヨット『マーメイド号』で、彼は親しい友人にすら出発する日を秘密にして海上保安庁の巡視艇が追跡出来ない状況を見極めた上でたった一人で日本から密出国したのだった、そして3ケ月後、太平洋を渡りきってサンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジに着いたヨットマン堀江健一をモデルにした映画が制作されたのだ。
 日本政府は小型ヨットによる渡米を認めておらず彼の行動を非難し厳しく罰する処分を検討していたが、当時のサンフランシスコ市長は彼の冒険を讃え『あのコロンブスもパスポートは持って来なかった』と彼を名誉市長として受け入れVIP待遇にしてしまった、小さなヨットで太平洋を渡って来た日本人を一目見ようと彼が行く先々で大混乱が起きたほどだった、それを知った日本政府は手のひらを返したように彼の処罰をいつの間にかすべて取り消してしまっていた。
彼が乗って行ったヨット『マーメイド号』は今もサンフランシスコに展示されている。

 日本でヨットと言うスポーツがなかなかメジャーにならないのはヨットに関しての認識度がまだ一般化されていない、レースが海上のため観客動員が見込めないのでスポンサーが付かない、気候が温暖の地とは言えない、などなど様々な理由はあるが私が思うに最大の要因は徳川時代の300年に及ぶ鎖国政策が漁民以外の日本人を海から遠ざけた結果日本人が世界で最も海に適さない体質に変化したのではないかと思われる。
 私は50年もの長きに渡り海と関わる暮らしの中で日本人が船に弱いと言う事に気が付いた。日本人は圧倒的に船酔いする人が多いのだ、日本に比べてヨーロッパの国々は14世紀の半ばから帆船で世界へ船出して侵略を繰り返し国土を拡大して来た歴史があるり、そのDNAを受け継いだ子孫だから海に強い体質が維持されているのだと思う。
 オーストラリアでのヨット登録隻数をオーストラリアの所帯数で割ると約一所帯に一隻となる、米国南部フロリダのマイアミでも同じであった、それほどボートが普段の生活の一部になっているのだ。オーストラリアやハワイなど気候に恵まれた所では毎年大きなヨットレースが開催されている、メディアはヘリコプターや船でレースを実況する、レース海域には大型客船を使っての観戦、レース期間中は街中のホテルやパブも満席になるほどの盛況振りである。

 さて、沖縄・本部(もとぶ)の海洋博公園を午後にスタートしたヨット『コテル』は沖縄の北にある与論島を過ぎるあたりで西の空に沈む夕日に白色のスピンネーカーをオレンジ色に染めながら順調に北上をしていた、南の風4メートル、やっと緊張した空気からも解放され誰かがキャビンのアイスボックスから沖縄で買ったオリオンビールの栓を抜いた、フィリピンのサンミゲルに味も瓶の形もそっくりのやや小さめのビールだ、船のアイスボックスの氷も明日中には溶けて無くなるだろう、歯に染みるほどに冷えたビールをゆっくり味わうことにする。
 一緒にスタートしたヨット群は思い思いのコースを、2ノットで北上する黒潮の流れを最大限に捕まえて四国室戸岬に向けて先を争っていることだろう、(室戸岬まで直線距離で510マイル、針路038度)、あれだけ沢山群れになってスタートしたヨットのセールがいつの間にか散り散りに離れ、昏の東シナ海の彼方に消えていった。

 ここで、ヨット『コテル』のメンバー構成を説明しておこう、メンバー全員で私を入れて8名である、西宮に本社がある会社の専務と常務、この二人は共に大学ではヨット部だった、その他に車のセールスマン、大学生、ヨットハーバー経営者、自由業、食品販売員と職種もいろいろだが皆三度の飯よりヨットが好きと言う連中がこのレースのために集結した。
その8名を4名づつのA、B二つのチームに分ける、そのチームごとに一人のスキッパー(艇長)を決め各チームはそのスキッパーの指示に従う、チームは2時間ごとに交代する、これをワッチ交代と言うのだが交代したチームはチームの責任において最大限努力し安全航行に勤める、他のチームは次のワッチ交代まで自由に休息を取ることが出来るが、何か事態が急変し『オールハンド』の指示があれば全員で緊急事態に対応しなければならないというルールが決まっている。

 1チーム4人はどのような事をするかというとまずはナビゲータ、これは私の役割であるが両チーム兼用で私一人だけである、『船頭多くして船山に登る』なんてことになってはならないからだ、つまり私は通常の作業に加えてナビゲータもしなければならない。絶えず船の位置を計測し船の位置を把握していなければならない、レースの勝敗を左右するので責任は重い、それともう一つ大変な作業は一日4回、NHKの短波放送を聞きながら天気図を作成し天気と風を予想するのだ『室戸岬西の風、風力4曇り1020ミリバール、南大東島南の風、風力3・・・・』というのがそれだ、当時まだ気圧はミリバールが使われていた、この天気図を参考に作戦を立てることもある、海の上では障害物がないので電波が良く届くと思いがちだが10マイル以上陸から離れればほとんど届かない、今の携帯もテレビも駄目である、地球は丸いからで直進性の電波の殆どが役に立たないのだ。
 スキッパー(艇長)は、クルーに適切な指示する事とラダー(舵取り)に専念しなければならないのでラダーから離れることは出来ない。
 フォァー・デッキマンは船首を担当する、彼はジブセールの上げ下ろしと交換、スピンネーカーセールの展開交換、マストトラブルなどの緊急事態にはマストの天辺まで猿の様に登ってトラブルを解消しなければならないこともある重要なポジションだ。
 残る2名は艇の左右1人ずつで6個のウインチを操作する、ときにはキャビンに格納してあるセール(帆)を次々取り出したり又収納したりもする、風をはらんだセール(帆)は人の力ではとても動かせるものではないので艇の片舷3個づつ取り付けてあるウインチでセールを操作する。