気が付けばとっくに昼が過ぎていたので社長の王さんが近くの中華料理店にランチに誘ってくれた、店に入って驚いたのはショウケースの中や水槽の中の食材、そのすべてが生きているのだ。蛙、エビ、スッポン、淡水魚、海水魚、鶏、アヒル、貝類、それらをメモを持った店員がお客の要望に応じて手早く調理してくれるのだ、手際よく調理された料理が次々に丸テーブル並べられていく、私がオーダーした蛙のから揚げも生前の姿のまま手足を伸ばしてジャンプする恰好で唐揚げになって出て来た。後から店にやって来た長男の嫁と次男も加わって船の着工を祝って乾杯することになった、出て来た酒はかなり度数の強い蒸留酒だ。午後3時の飛行機まであまり時間が無いので折角オーダーした蛙のから揚げを急いで頂いた、味は次に来た時は真っ先にオーダーしそうだと思うほど美味であった。いよいよ帰る事を告げ、かなり酔って握手した、手を離さない社長の王さんの手を無理やり振り解いて長男と店を出た。
帰りも空港まで長男がピックアップトラックで送ってくれた、一か月後に再び来る事を約束して出国ゲートまで見送ってもらった。ボートが一隻契約出来た事に彼は大変喜んでいる様子だった、握手を交わしながら『ツァイ チェン〜さよなら』とお互い双方の国の言葉を交わして別れた。急いでエスカレータを駆け上がると8番のチェックインゲート前には人の姿は既に無かった、トランシーバーを持ったゲート嬢が私の姿を捉えて急ぐよう誘導してくれた、ボーディングブリッジを小走りに渡りノースウエスト航空の大阪伊丹行きに飛び乗った。瞳の色がブルーの長身のキャビンアテンダントが私が機内に入ると同時にドアーを閉めた、私が一番最後の乗客だったらしい。
桃園国際空港を飛び立って暫くは湧き上がるような喜びを噛みしめていたが次第に支払のことを思うと気分が重くなってきた、思えば大変な買い物をしたものだ。来月の初めには千数百万円をドルに換金して送金しなければならないのだ、その代金が振り込まれない限り造船がスタートされないのだ。台湾の造船所は何故ドルを要求するかというと世界の貨幣で一番安定しているのがアメリカドルなのだ。世界の原油の値段を決めているのは採掘量の多い中東諸国と思っていたらこれもアメリカが決めているのを最近まで知らなかった、いずれにせよ今世界で一番力のある国はアメリカなのだ。
ボートに使用するエンジンから用品にいたるすべてがアメリカ製品をアメリカから仕入れているからである、(この当時1ドル⇒135円)自動車産業では世界に誇れるものを作っている日本ですら今回作ろうとしているボートに適合する製品は何もない、それほどレジャーに関してはアメリカに100年も遅れているのだ、それほど日本はレジャーに関しては遅れている。明治の後期から昭和の初期ごろは生産性の無い事をすると罪悪と考えられていた、趣味を持つ人を道楽をする人と言われ、意味のない無駄な金を浪費する人のように言われて来た、レジャーと言う言葉が普通に使われ出したのは平成になってからだと思う。
こうして1989年の春、台湾の桃園でマイボートの造船が始まった、一年後が楽しみだ。