長男の嫁が茶器と一緒に部屋を出た後、社長の王さんと長男の専務と私の三人だけで真剣にミーティングに入った、三人が座るテーブルにはすでに作業工程表をプリントしたものが置いてあり着工から船の引き渡しまでの作業工程が詳しくグラフで記入されていた、その行程表を見ながら数か所に印を入れた、作業を現場に来て確認したいからだ。
社長の王さんは船体のどの部分に如何に強度を持たせるかとか船首部分には衝撃緩衝材を使用するなど造船技術面を強調してクライアント(依頼主)に訴える様な口調で説明していた。長男の専務はアメリカで学んだ知識を前面に出して主に機関の耐久性や安全性、メンテナンスの容易性、部品の供給面などを噛み砕くように説明していた。長男の説明は英語オンリーだが専門用語が大部分なので内容は充分理解できた。
船に据え付けるエンジンの種類と大きさ、発電機の種類と容量、燃料タンクの大きさ、清水タンクの大きさ、完成予定時期、支払条件、大阪までの輸送方法など今日の午後3時の大阪便で帰るまでに決めなければならないのだ。
 最終的に決めたのは、エンジンは『キャタピラー3208型375馬力』×2機・『燃料タンク2000リットル』、『清水タンク700リットル』、『発電機ノーザンライト8キロワツト』×1基、この発電機は輸出用に日本で製造されたもので日本国内では販売されていないから逆輸入の形になる、『温水機』×1基、以上がその日決めた事項である、造船総額は日本円で概算4000万〜5000万だが正式な見積もりが出来上がるには4〜5日要するとの事で後日FAXを送ると言うことで了承する。キャピンの内装はタイから日本に殆ど入荷してなかった輸入材の『チーク材』を使って仕上げる様に依頼した。
 船の支払条件は総額の三分の一を工事開始時に支払う、そして三分の一をエンジン取り付け時、完成引き渡し時に残り全額をすべて米ドルに換金して支払うと言う条件で契約が成立した、願わくば全額払い終えるまでに一円でも円高になるのを期待するのみだ。第一回目の支払いは2週間以内に送金することを約束して今日は一旦日本に帰るという事で打ち合わせを終わった。

 気が付けばとっくに昼が過ぎていたので社長の王さんが近くの中華料理店にランチに誘ってくれた、店に入って驚いたのはショウケースの中や水槽の中の食材、そのすべてが生きているのだ。蛙、エビ、スッポン、淡水魚、海水魚、鶏、アヒル、貝類、それらをメモを持った店員がお客の要望に応じて手早く調理してくれるのだ、手際よく調理された料理が次々に丸テーブル並べられていく、私がオーダーした蛙のから揚げも生前の姿のまま手足を伸ばしてジャンプする恰好で唐揚げになって出て来た。後から店にやって来た長男の嫁と次男も加わって船の着工を祝って乾杯することになった、出て来た酒はかなり度数の強い蒸留酒だ。午後3時の飛行機まであまり時間が無いので折角オーダーした蛙のから揚げを急いで頂いた、味は次に来た時は真っ先にオーダーしそうだと思うほど美味であった。いよいよ帰る事を告げ、かなり酔って握手した、手を離さない社長の王さんの手を無理やり振り解いて長男と店を出た。
帰りも空港まで長男がピックアップトラックで送ってくれた、一か月後に再び来る事を約束して出国ゲートまで見送ってもらった。ボートが一隻契約出来た事に彼は大変喜んでいる様子だった、握手を交わしながら『ツァイ チェン〜さよなら』とお互い双方の国の言葉を交わして別れた。急いでエスカレータを駆け上がると8番のチェックインゲート前には人の姿は既に無かった、トランシーバーを持ったゲート嬢が私の姿を捉えて急ぐよう誘導してくれた、ボーディングブリッジを小走りに渡りノースウエスト航空の大阪伊丹行きに飛び乗った。瞳の色がブルーの長身のキャビンアテンダントが私が機内に入ると同時にドアーを閉めた、私が一番最後の乗客だったらしい。

 桃園国際空港を飛び立って暫くは湧き上がるような喜びを噛みしめていたが次第に支払のことを思うと気分が重くなってきた、思えば大変な買い物をしたものだ。来月の初めには千数百万円をドルに換金して送金しなければならないのだ、その代金が振り込まれない限り造船がスタートされないのだ。台湾の造船所は何故ドルを要求するかというと世界の貨幣で一番安定しているのがアメリカドルなのだ。世界の原油の値段を決めているのは採掘量の多い中東諸国と思っていたらこれもアメリカが決めているのを最近まで知らなかった、いずれにせよ今世界で一番力のある国はアメリカなのだ。
ボートに使用するエンジンから用品にいたるすべてがアメリカ製品をアメリカから仕入れているからである、(この当時1ドル⇒135円)自動車産業では世界に誇れるものを作っている日本ですら今回作ろうとしているボートに適合する製品は何もない、それほどレジャーに関してはアメリカに100年も遅れているのだ、それほど日本はレジャーに関しては遅れている。明治の後期から昭和の初期ごろは生産性の無い事をすると罪悪と考えられていた、趣味を持つ人を道楽をする人と言われ、意味のない無駄な金を浪費する人のように言われて来た、レジャーと言う言葉が普通に使われ出したのは平成になってからだと思う。
 こうして1989年の春、台湾の桃園でマイボートの造船が始まった、一年後が楽しみだ。