今から4年前、長男は家業の造船業を本格的に勉強するためにアメリカに旅立った、彼の向かった先はロサンゼルスにある世界最大のヨットハーバー『マリーナ・デル・レイ』の中にある造船所である。
ロサンゼルス国際空港から北に約6キロ、車で10分程の所にヨットハーバー『マリーナ・デル・レイ』がある。此処には二つの世界一がある、一つはボートの係留隻数が5,000隻を越えていて世界一、もう一つはこのヨットハーバーがすべて人工で造られたものとしては世界一である事、世界中のヨットハーバーの殆どが自然の海岸の一部を造成して作られているが、ここはすべてが人工で造られているのでヨットハーバーからは直接海は見えない、海に出るには南西に延びる幅200メートルの人工の長い水路を通って太平洋に出るのである。
ハーバー外周には美しく整備された遊歩道が続き、海沿いの遊歩道は十数キロに渡りヤシの樹が植えられていて道路沿いには有名なレストランやオープンカフェ、ファストフード店などが軒を連ね誰もが一度は行って見たい観光地の一つだ。7キロ北にはシカゴから始まるルート66の終着の街サンタモニカ、映画の都ハリウッド、高級住宅地ビバリーヒルズ、おとぎの国ディズ二―ランドなどが車で30分以内で行ける距離にあるので世界中から観光客やセレブ達も集まる観光地だ。
その『マリーナ・デル・レイ』にある造船所に長男はプレジャーボートの造船技術を習得するために働いていた時に、近くで中華飯店をしている両親を手伝っている娘と言葉を交わすようになり交際が始まった。彼女も両親もアメリカ生まれなので当然アメリカ国籍なのである。
彼女の曾祖父、甘さん一家は1910年、湖南省で干ばつが続いたので厳しい農業に見切りをつけ、サンフランシスコで食堂を営む知人を頼ってアメリカに移住したのだ。皿洗いをしながら料理を覚え、移住から20年目にサンフランシスコのダウンタウンで飯屋を始めるまでになったそうだ。ロサンゼルスに移ったのは祖父の時代で1950年ごろハリウッドの映画産業が全盛期の頃、映画関係者を対象に食堂を始め当時としては珍しい出前サービスを始めたのが当たりその頃クラーク・ゲーブルに映画の中のシーンで箸の使い方の指導をしたと言う自慢話を祖父から何百回も聞かされたそうだ、また映画スタジオに中華料理を手押し車で出前してパーティを盛んにしたのも祖父だった。
周怜さんが物心ついた頃にはマリーナ・デル・レイの北の通りで彼女の親夫婦が中華食堂をやっていて周怜さんは3姉妹の末っ子、三人揃って美人で噂が広まり店は結構繁盛していたそうだ。小、中、高校も英語で教育を受けたので意外な事に中国語は苦手、曾祖父達の故郷である中国語は殆ど使わないとのこと、よく食堂に来る長男と付き合うようになり彼に英語を教える様になって親密度が増していったらしい。
それから4年たった昨年の秋に二人で台湾に帰って来たのだと言う。王社長はその息子夫婦が英語で会話するのが気に食わないと不満気であったがその表情が手放しで息子の自慢を物語っているようで微笑ましい。そのあと私に顔を近づけ小声で『まだ孫を仕込んで居ないらしい』と、ぼそっと言ったのが面白くて思わず声を出して笑ってしまった。日本語が解からない彼女は長男にWhy?と尋ねるが彼も両手を広げて解からないという表情をしているので私と社長が顔を見合わせ更に笑ってしまった。何れにせよ幸せそうな家族ではないか。
台湾には20程造船所があるがこの造船所ならきっと良い船を作って呉れるだろうと思う気持ちが益々強くなった。
彼女が中国の茶道の作法で入れてくれたお茶の香りが部屋の空気を一層和やかな雰囲気にしていた、お茶を奨めながら王さんは『このお茶は中国奥地の桂林から新茶を毎年取り寄せている』と昨日はいい加減に聞いていた自慢話を今日は聞かないわけにいかないが、なにしろ日本語が話せるのは王さんだけなので、お喋りが長くなれば時間が無くなるのが気掛りになり『王さん今日は3時までに船を契約して帰りたいのだ』と話を本題に戻すよう促した。