いろいろ過去の思い出にひたっている間に目の前まで友が島水道の地の島が迫っていた。
この水道は流れのピーク時には5ノット以上にもなり、時には山のような三角波が立つ危険な場所である、水深が人の腰までしか無い浅瀬もある船の難所だ。淡路島側の水道を通れば今日の停泊予定地、高知県の『甲の浦』まで5マイルは距離を短縮出来るのだが、好きな場所の景色をもう一度脳裏に刻んでおく為にあえて遠回りのコースを選んだ。先を急ぐ旅ではないのでダイビングを始めた頃から通い詰めた和歌山の海を見納めておきたいと思ったからだ。 ここ友ヶ島水道を抜けると油を流したように穏やかにうねる紀伊水道に出る。真昼の太陽と海の色はもうすっかり夏の気配だ。

 3人を乗せて航行しているサンフイッシュ号はべた凪の紀伊水道を時速15ノットで順調に南下している。前方に沼島が水面上にお椀を伏せたような姿を少しづつ大きく形を変えている。右手90度方向に鳴門海峡大橋が春霞にけむる海峡の中央にアーチの部分だけを覗かせている。
 ここ鳴門海峡は日本の三大潮流の一つで来島海峡・明石海峡・鳴門海峡の中では最も潮流が早く大潮の時は最高11ノット(20キロ)で流れ6時間ごとに西と東に転流する。運悪く進む方向と逆の流れにぶつかった船は海峡の手前で錨を入れて転流するのを何時間もひたすら待つことになるのだ。この海峡ではこの潮待ちをする船をよく見かける。

 間もなく吉野川河口を通過する、ここを過ぎると徳島市に入る。徳島市には毎年8月のお盆休みを利用して必ず来るようにしていた。私は親も私も大阪で生まれ育ったのでお盆に墓参りや里帰りするところが無い。ある年のお盆に阿波踊りを見物に行く事になった、そこでその踊りの優雅さと祭囃子のリズムにすっかり魅せられて祭りの余韻が何時までも耳に残ったのを覚えている。それ以来毎年8月のお盆が来ると、あたかも其処が自分の郷里でもある様に阿波踊りに合わせて徳島に来るようになったのである。
新町川の河口から5キロほど西に遡るとやがて『かちどき橋』に行き当たる、此処から先は船で行けない、橋の近くに徳島県庁舎があり毎年その前に船を止めて祭りを見物したものだ。現在は川の両側に『ケンチョピア』というプレジャーボートの係留設備が出来ているが25年前には何も無かった所だ。

 橋を渡って右に徳島大学、更に一キロ先には徳島城跡の巨大な石を積み上げた石垣が徳島の歴史を物語っている。阿波踊りはここ『かちどき橋』を中心とした市内一帯で毎年8月の12日から15日までの4日間行われる。市内7ヶ所に特設演舞場が設けられているので徳島市全体が巨大なスタジアムの形相を呈している、通りのその両側に立体式の観客席が設えられている。祭りの期間中の踊り手の数が10万人と記録されている。踊りの様子をテレビメディアが毎年ライブで放送しており、このステージで各踊りのチーム(これらチームの事を連という)が日頃練習で鍛えた踊りを披露する。市内以外から参加するものも多くその連の数は数百にもなり観光客の数は市民の数を上廻る事もあるほどだ。徳島を代表する連では『いなせ連』、『朱雀連』、『徳喜連』、『あほう連』など、これら連の踊りはステージショーを観るようだ。
それに加えて県外からの飛び入りの即席連も加わり徳島市内は祭りの期間中は最高に盛り上がる。
どの連も基本的なお囃子や身振り手振りは変わらないが各連ごとに着物の色や図柄にそれぞれの工夫を凝らしユニークさを表現し踊りの動作にも様々なフォーメーションに変化を付けて観客を魅了する。お互い踊りの技術を競うことで年々向上して行く。女性の着物に白足袋に下駄を履いた姿は忘れかけていた日本の美しさを再発見することが出来た。

 14年前の1985年8月12日、この日も阿波踊りに参加すべく午後3時過ぎに西宮ヨットハーバーを出て淡路島に沿って船は南下していた、丁度そのころフイリッピンの南海上に台風が発生していて日本の太平洋沿岸に早くもうねりの影響が出始めているとのことで台風の事が気になりラジオの天気予報をずっと聞きながら航行していた、その時、通常放送の途中で割り込むように臨時二ユースが流れた『羽田発⇒大阪伊丹行き日本航空123便が羽田を出発して間もなく消息をたった』と言う内容を繰り返しアナウンスするようになった、その日の夕刻徳島に着くころになってようやく群馬県御巣鷹山の山中に墜落した模様との発表があった。驚いたのは乗客の520名という人数だ、今の飛行機はそんなに乗れるのかと改めて知った、この時は流石がに御祭気分が吹っ飛ぶ程の衝撃だった。

 あれから14年も経つのだ、そのとき一緒に連れて行った友人の中学生の女の子から最近手紙が届き結婚して子供が出来ましたと初めて見る男性と赤子を抱いた親子三人で撮った写真が同封してあった。最初差出人に記憶が無いので改めて顔を良く見ると記憶が蘇った。当時女子中だった頃の無邪気で愛くるしい顔がいかにもな女の顔に変貌して写真に写っていた。結婚して清水と言う名前に変わっていたが旧姓は長谷川恵と言う名前だ。
 父親は大阪市内の総合病院で外科医として勤めておられた。私とは同じヨットクラブのメンバーで子供が5人も居て休みの日に家族でヨットハーバーに来ると玩具箱をぶちまけた様に賑やかになったものだ。先生は医師という職業だが病院に勤めておられたのでサラリーマンとあまり変わりない立場なのだ。子供達にはけっして贅沢な事はさせておられなかった、人の生き方は自然の中から学ぶものと常に言われていた。子供たちと過ごす時間はアウト・ドアが中心で近所の野原で山菜を採取したり小川で野生のセリを摘んで冬は鍋を囲んだ。

 ヨットハーバーに置いてある27フィートのセーリング・ヨットも子供たちとの一緒に時間を過ごすためのアイテムなのだ。このヨットでトローリングをして魚を捕る、採れた物を如何にすれば美味しく食べられるかを皆で考える、そして実行するという楽しい家族なのだ。
ヨットで10分も行かない西宮の浜で簡単に魚が釣れた、春には鰆・夏はエソ・秋は太刀魚・特にエソは、すり鉢とレンゲですり身にして天ぷら粉と塩・コショウを加えて練った物を親指大に形を整えて油で揚げたのが『エソナゲット』だ、これも子供たちが考えたヒットメニューだ。ヨットの名前も子沢山にちなんで『チビラ』と命名された。子供達は一人として塾に行っていない、それよりヨットハーバーに来て私と遊ぶ事を選んだ。私も自然との接し方のすべてを伝授した、親もその意図を理解しておられたのだと思う、私とは家族ぐるみの付き合いでクルージングは常に行動を共にしていた。

 先生のヨットは27フィートなのでヨットに家族7名が乗るとかなり窮屈になるので全員が船で寝るには無理がある、クルージングに出掛ける時は、子供たちは私の船に乗るのが習慣の様になっていた。当時の私の船は42フィートのフィシャマンタイプで27フィートのヨットに比べると大きさもスピートも違うので子供は皆こっちの船に乗る事を希望した。先生とは落ち合う場所を予め決めて置いて向こうで合流するようにモダン取りしていた、先生のヨットには先生夫妻だけで我々の船の後を追う様に付いて来られた。
末の男の子がまだよちよち歩きだった頃ヨットから転落しないようにいつも子犬の様に紐でマストの根元に繋がれていた、その宗貴も今や小学4年生だ。長男と一番下が男でその間に三人の娘が居る、長女は高校生になったばかりで5人とも年の開きがあまりない。

 ヨットハーバーを同時に出ても目的地に着く時間は2時間もヨットが遅れて着くので、先に着いた私と5人の子供たちはヨットが到着するまでの時間を決して無駄にはしない、全員で釣りをしてその日の夕食を皆で作るのである。釣れるものは季節によって変わるが、キス・コチ・エソ・あじ・サバ・カサゴなどでクルージングの期間中の食材は充分海から調達出来た、勿論『エソナゲット』も忘れない、子供たちは女の子も男の子もチャレンジ精神旺盛で魚の料理をすぐに覚えてなんでも出来る様になった。小4の子供が魚を三枚におろし、そのアラを使って味噌汁まで作ってしまうまでになった、みんな食べざかりなので自分が作った刺身が直接口に消えるのも多かった。
親たちの乗ったヨットが2時間遅れて到着する頃には、ご飯も炊きあがりテーブルの上に 3〜4種類の惣菜を用意して親たちの到着を待つのが我々のクルージングスタイルになっていた。

 1985年8月12日、日航機123便が墜落した夏もその子供達は私の船に全員が乗って徳島に行ったのだ、それから3年目の冬、長谷川先生が癌で亡くなられた、外科医と言う職業がに似合わない様な温厚な先生で丸いフレームのメガネの中の眼が何時も笑っておられた優しい先生だった、私の心にぽっかり穴が空いた思いがした、人の命を救うために奉仕されている医師の命を何故こんなにもあっさりと奪う無慈悲な神の仕業を恨んだ、私以上に奥さんも子供達も悲しんだ、52歳という若さだった。