その当時、私は運輸省指定の公益法人で船舶免許関係の試験員の仕事をしていた。
その仕事に就いて丸4年を過ぎた春、プレジャーボートにも船舶免許取得制度が義務付けられたのを機にその団体を離職し個人でボート免許教習所を設立した。新御堂筋に沿った新大阪駅の近くに事務所を設け会社登記した。
団体の払下げの教習用ボート1台からのスタートだったが事業を起こして3年目の頃からようやく軌道に乗り教習用ボートも8隻まで増えていた、折からのレジャーブームの波に乗り阪神西宮を拠点に年々その規模を拡張して5年目には京阪神一円に事業を展開するまでになった。此処までは順風満帆と思われていたがそれもあまり長くは続かなかった。
 1994年ごろから不景気風が吹き始めレジャーブームにも陰りが見え始めた。一時は集客の対応に窮するほど忙しい頃もあったのがこのころから船舶免許を受けにくる人が潮が引くように減り始めて事業の拠点数もそれ迄の半分にまで縮小せざるを得なくなった、バブルが弾け始めたのだ。
国家資格というものは種類によっては更新制度の必要なものもあるが大抵は終身有効である、したがってリピーターというものが無いのである、自動車免許もそれは同じであるが車とボートは社会における必要性が比較にならないほど違うのは歴然である。

 そもそも船舶免許を取得しに来る人で船を持っている人は僅か数パーセントにすぎない、免許取得に来る人の殆どが『資格だから取っておこう』と言う資格マ二アが多かった、それと船では乗り合わせた人の中の誰かが免許を持っておれば運転は誰でも出来ると言う事が法律で決まっているので無理をしてまで免許を取る事はないのである、船舶免許を取得したところでそれがすぐ仕事に繋がる可能性は少ないのだ、従って世の中景気が悪くなりお金に余裕が無くなるほどに船舶免許を取得する人が急速に減るのである。
 世界190もの国があるがレジャーで使用する小型の船舶又は漁船で免許制度を実施している国は日本、西ドイツ、フランスの3ヶ国だけである、国によっては船のトン数で制限を設けられているがそこそこ大きな船でも自己責任において自由に扱う事が出来るのである、折角日本で苦労してボート免許を取得しても海外では殆ど役に立たない資格と言える。
 ボート免許部門も低迷を続けるなか1990年に新しく造った全長16メートルのレジャーボートを使って新しい事業を始めたが所詮景気が回復しない限り娯楽や趣味から人は離れてゆくものらしく事業も思う様に伸びなかった。もうこれ以上負の連鎖を増やさないよう注意しながら無駄な営業経費を削減した結果従業員の雇用条件や賃金体系は変えることなく何とかやってこれた。
この先どの位この状態が維持できるか正直なところ自信が無い、勢いがある時は物事がうまく行くが物事を消極的に考え始めるとことごとく裏目になるものだ、世間の空気から感じ取れるのは不況は長引くであろうと思われる事だった。

 そこで、いろいろ思案を重ねた末出した結論は事業を閉鎖することだった。期限は5年後丁度私の年齢が満65歳になった時点でと言う事に決めた。
そして従業員の皆にその旨を伝えた、この不況は予想以上に長引くこと、私自身の体力の衰えなどを説明して不本意ながら廃業せざるをえないという私の気持ちを理解してもらった
従業員たちには今後5年間は今迄どうりの条件で働いてもらい、もし希望者がいれば事業を無条件で引き継いでもらう案も提示したが結局これも引き継ぐ希望者はなかった。それだけ、この事業が今の不況下でこのまま引き継ぐのは容易ではないという事が解かっているのだと思った。
 廃業を決めてから5年が過ぎ事業の整理も準備期間に5年も掛けた事もあってスムーズに廃業に事が運んで行った。廃業も余力のあるうちに実行すべきで借入れ金があれば廃業すら難しくなる。倒産と違って何の問題も残さず整理出来た。従業員たちもそれぞれに行き先を決め、同業種に再就職した者、ある者は趣味を活用してステンドグラスの工房を立ち上げたものや外食産業に参入した者、結婚して主婦になり子供が出来た女性もいた。 8隻も保有していた教習用のボートも中古ボートとして売却、80uワンルームの事務所は今迄事務所として使用していた備品機材一式を付けて一カ月15万円で賃貸出来ることが決まり4月から家賃収入が得られるようになった。

 唯一最後まで残ったのは10年前に台湾で造った全長が16メートルのボートで1時間走る毎に燃料を100リットルも消費するボートには世の中の景気が悪くなった今となっては誰も買い手が付かなかった。仕事を辞めたものが個人で所有するには余りにも金が掛かり過ぎるボートだ。ヨットハーバーの係留費だけで月額20万円、その他、保険代が年間70万、燃料費などを入れると今年から受け取る筈の年金を全部吐き出しても半分にも届かない。仕事を辞めても生活はこれから先死ぬまで続くのである。5月末にはここの係留期限が切れるので、このヨットハーバーを出なければならないのだ。色々考えた末、思い付いた結論が、このボートで奄美大島に移住してしまおうかと考えたのである。以前から田舎暮らしにあこがれていたので離島で暮らすのも悪くないと思っていた。奄美に移住して生活の糧を得るために働くのではなく、のんびりとした暮らしがしたいと言うだけなので事務所の賃貸料の月額15万円と国民年金月額12万でなんとか生活できそうだ。

 65年間暮らしたこの土地を去ると言う気持ちの整理が出来るまでに相当の時間が掛った。家もあり仕事もあり心を許せる友達とも街とも、何軒もの馴染みのお店、全てに未練がある。悪い事をしてその街から夜逃げすなら簡単な事だろう。身動き出来ないほどの足を振り解いて知らない土地に向かおうとする気持ちは何だろうと思うとき正直答えられるのは、私は人より好奇心が強い・冒険心が旺盛と言う事かも知れないが相当勇気のいることだ。

 奄美大島には趣味のダイビングを兼ねて旅行で何度か行ったことがある。奄美大島龍郷町芦徳の『カレッタ』というホテルを利用していた。そのホテルの近くに最近出来たばかりの結構大きな漁港があるのを思い出した。
ホテルで以前に聞いた話では竜郷町に籍を置くものはその港を無料で利用できるという話である、ヨットハーバーで係留費だけで月額20万も支払っていたので無料と言うのは魅力だ。念のため今一度電話でホテルの支配人に問い合わせて確認して見たが確かにその通りだとの返事である。
 そこでこちらの事情をつぶさに説明してホテルのオーナーに私の住所を暫く『ホテルカレッタ』に移させて貰えないかと相談したところホテルのオーナは快く承諾してくれた。むしろ大きなレジャーボートがホテルの近くに来る事をむしろ歓迎してくれている様子だ。
ホテルでもその船を利用したホテルのメニューを企画しましょうと言ってくれた、そこで早速私の住所を大阪から龍郷町芦徳のホテルカッタ内に移す手続きをして一週間後には龍郷町に住所を移していた。
 船の問題はこれでひとまず解決することが出来た。ボートで奄美に着いてからは船で暫く生活すれば家の心配はいらない、そのうち奄美で落ち着けば土地を探して小さな家でも建てるとして、取りあえず今月で此処を離れよう、向こうに着けば何とかなるだろう、と西宮を離れる決心をした。南西諸島の梅雨は本州より約1ヶ月ほど早い、なんとか5月中に奄美に着くように、ここを離れたほうがよさそうだ。
 これから向かう奄美大島までの航行距離は550マイル(約1,000キロ)同行者含めて三人での船旅が始まった。1999年5月18日午後1時、家族を大阪に残して兵庫県西宮のヨットハーバーを出発した。