西宮のヨットハーバーを出航したサンフィッシュ号は針路を真南180度にとり航行してやがて2時間になる、後方に六甲山や兜山の稜線が遙かに霞むほど遠く離れていた。それまで努めて振り返らないよう我慢して前方の進路上の友が島水道を見据えて航行して来た、もしも振り返ったら張りつめた気持ちが緩んで30年間慣れ親しんだ六甲の山々や神戸の街並み、明石海峡大橋など長い歳月見慣れてきた懐かしい景色が涙に霞んで見えなくなるのを恐れて振り返らなかった。

 それらの景色がやっと見えなくなった事で惜別の思いも次第に薄れ胸のシコリも離れ行く距離とともに少しづつ軽くなった。もう二度と西宮の港に帰ることはないだろうと何度も自分に言い聞かせて住み慣れた土地を10年間使い慣れたボート(サンフィッシュ号)で離れたのは1999年、私が満65歳も3か月過ぎた5月の事だった、不安と期待が入り混じった複雑な気持ちの船出である。500マイル彼方の地、奄美大島に新たな人生を探す旅が始まった、もう後戻りは出来ないことを決意して・・・。

 1970年(昭和45年)大阪万博-EXPO'70が開催された、期間は3月14日〜9月13日までの183日間行われた。
万博会場は大阪の北の繁華街梅田から北へ約10キロ、大阪府吹田市の千里丘陵に350ヘクタールという広大な敷地に当時は竹藪や荒れ地だった所を造成して造られた、日本万国博覧会が正式名称であるがあまり知られていない、一般的には大阪万博として認識されているようだ。
名誉会長には当時の内閣総理大臣佐藤栄作が任命された。

 最初の参加予定国は81ヶ国であったが様々の事情で4ヶ国が棄権、最終的には77ヶ国になった。会場には国毎に趣向を凝らしたパビリオンが建ち、その国ならではの物を展示したがその中でも一番の人気を集めたのがアメリカ館のアポロ11号が月から持ち帰った『月の石』で、これを見るのに連日長蛇の列が出来るほどの盛況であった。日本の企業では三菱未来館、日立グループ館などに人気あった。
会場中央には岡本太郎がデザインした万博のシンボルタワー『太陽の塔』が会場全体を見下ろすように建ち現在も残されている。
目標入場者数は3,000万人であったが目標を遥かに超える入場者が詰めかけて結果は6,421万人と万博史上最高を記録することになった。

 万博会場のある千里丘陵には次々と新しい団地が建ち千里二ュータウンと言う新しい街が出現した。
大阪市内を南北に縦断する幹線道路、御堂筋と万博会場とを繋ぐ新しい道路、新御堂筋線の完成に伴い千里、吹田、豊中など万博周辺の地価は高騰し場所によっては数百倍になったところもあった、にわか億万長者の土地成金がこの近在農家で続出したのである。
御堂筋沿いに建築中の新築マンションは完成前にすべて完売と言う例も多くあったが投機目的で購入する人も多かった。

 巷では万博のテーマソング三波春夫が歌う『世界の国からこんにちは』が流れ万博景気に沸きかえっていた。この年にヒットした唄は『知床旅情』や『走れコータロー』、映画では『男はつらいよフーテンの寅』があった。
この頃がバブルの始まりだったようだ。