この日、私はシーカヤック人生を通し、いや、全人生を通し、もっとも命の危険を冒した。状況を思い出せば出すほど、なぜいま生きているのだろうと不思議でならない。何かが、まだ生きろといっているとしか思えなかった。以下、当時の状況をできるだけ思い出しての回想である。 ちょっと長くなりますが、こんな失敗をしないでほしいため、あえて書かせていただきました。気長にお読み下さいませ。
2000年7月6日 白保〜石垣港へ
天気予報曰く 晴れ 東の風強く 波の高さ 3mのち4m
台風接近につれ、この日はこんな天気予報だった。このままぐずぐずしていれば3日間はさらに停滞。外でキャンプもできない。また、那覇で関東からやってくる友人達と合流する予定などもあり、スケジュール的な焦りもあった。この日でなければ…。
そして民宿の親方、仲良くなった宿泊仲間に心配されながら見送られて私は台風のうねりで荒れ狂う白保の海に漕ぎだした。
<胸騒ぎの船出>
かつてエコマリン東京というシーカヤックショップにいた頃、師匠のトレーニングで静岡の駿河湾を50km横断したことがあった。強風波浪注意報、駿河湾フェリー欠航。西風強し。うねりは3mほど。追い風のサーフィンだ。湾の中程では丘のようなうねりだった。そこを5人の強者パドラーで漕いだ。何度も転覆しては水深2000mの青い宇宙のような海中をみつめ、ときおりエンジンがついたかのようにカヤックは飛んでいく風の中。暗くなって月明かりを頼りに対岸へたどり着いた。
また、休みの度に千葉の九十九里海岸へ行き、オーバーヘッドの波をシーカヤックでのって鍛えてきた。こんな経験があっただけに自信があった。白保から石垣港へ向かうには追い風、ぐんぐん進んでいくはず。だが、地の利を知らない南西諸島、重大な誤算をしていたのだ。駿河湾にはリーフはない。ここ、石垣島はリーフが広がっている。波はその
<無視してしまった警告>
民宿まえざとのひでぼうに『ええやつだったのお』と後で言われんようにせいよと釘を刺された。何度も「大丈夫だな?」ときかれたが、自信があったので「はい!」と威勢よく答えて海に躍り出た。リーフ内は勢いよく追い風にのって進む。だがやがてリーフの切れ目を抜けることになる。激しい白波が崩れている。まるで不意打ちのように一発、大きな波が突然叩き付けてカヤックのデッキを洗った。気がつくと大切な防水ライトが流されていた。このとき嫌な予感がしたのだ。だがかまわず進み続け、リーフの外へ出ることができてしまった。
出てしまえば風は強いが大きなうねりだけ、背にうけてどんどん進んでいく。快調に石垣港方面に進んだ。曇り空で海はダークブルーに染まり、巨大な谷と山が交互に後方から来てはすぎていく。激しい突風に耐えながら漕いでいた。しかしどこかでリーフの中に入らなければ永遠に海の上だ。港への入り口は深い水路で簡単に入れるはずだった。だが、それさえも見分けられないほど海は
<決死の突入 縦になった5mのカヤック>
どれくらい時間がたったか、海はますます荒れ狂ってきた。進入路がわからないなら、どこかから崩れる波の中へ進入しなければならない。そして、もはや引き返すこともできない状況だった。岸の方へ向くと波が激しく白く崩れている。高さ、音、いずれも師匠につれられていった九十九海岸の比ではなかった。ブレークするリーフ際に近づくにつれ、だんだん体が震え、怯えだした。体が危険を感じるのだ。もはや技術の有り無しを超えた世界に来てしまったことを悟ったがもう進むしかなかった。私は自分を、やってきたあらゆる訓練を信じて進んでいった。サーフライディング、追いつく波を先に行かせ、その背を追う、それを試みた。だがうねりは崩れる地点で、その倍近い大きさになっていた。そしていよいよ最終ラインを突破しようという時わたしはその波を先に行かせるため、後ろに漕いだ。だが台風のうねりのパワーとスピードの前に、そんなものは無意味だった。後方から迫る波はカヤックの後ろを一瞬で持ち上げ、私は上から舳先と海面を見下ろす体制になった。90度近く縦になり、舳先が凄まじい勢いで海中に突き刺さっていく。そしてカヤックの後ろ端よりも高く、白く崩れる波が襲ってきたのだ。
<神を信じるしかなかった>
一瞬、凄まじく加速したカヤック。左右に頭上を越える白い砕け波が見えたとたん、反射的に自分からカヤックを転覆させた。縦に折れること、パドルが折れることをかばったのだ。次の瞬間、首と腕が体からもぎ取られるような激しい渦にまかれ何度も回転した。洗濯機の脱水の回転の中というとわかるだろうか。真っ暗ななか轟音と凄まじい水の力、そして痛みを感じ、ただ「神様!!!!」とだけ心が叫んでいた。握っていたパドルはものすごい力に引きはがされ、ただ万歳のポーズ以外できない。もう死んでもおかしくなかった。
<奇跡的なリーフイン>
気がつくとゆっくりとした水の流れになりカヤックの下に青空が見えた。下に…? そして時々白い崩れ波が青空を覆い隠しては去っていく。そう、転覆してぶら下がっている状態で意識がはっきりしたのだ。とっさにカヤックからはい出して水面に顔をだす。再び波にもまれる。どうやらリーフの中にはいったようだった。カヤックの上にくくりつけていたものはほとんどない。みると10mほど遠くに浮かんでおり、みな勢いよくながされ離れていく。奇跡的に携帯電話の防水ケースだけは目の前に浮かんでおり、すかさず拾う。岸まで200mほどの地点だった。私は再び水中に潜ってカヤックの座席に入り込み、パドルで起こすエスキモーロールを試みた。だが水がいっぱい入っているうえに、まだ波が絶え間なく打ちつけている。おまけにパニック状態という状況で何度も失敗し次第に体力は失われていく。やがてあきらめてカヤックを引っぱり岸まで泳ぎ始めた。
消耗しきった体で泳ぎ続けていく。めがけていた場所からどんどん横に流されていく。リーフ内の潮も川のようだった。すこしづつ足がつき始めたとたん助かったと感じた。そして歩いてカヤックを引けるようになり無人の白い砂浜に引き上げた…。沖をみると、いま超えてきた波がうなりをあげて崩れている。
無傷であれをこえてきたのだ。とたんに腰が崩れ落ちた、腰が抜けたのだろう。そして助かった安堵のあまり涙があふれてきた。無人の浜をいいことに、すすり泣いていた。いい年をして大人が声を上げて泣いた。自分は驕っていた、そして海を甘く見ていた、心底反省した、そして神に驕った鼻を折られ同時に命あって岸にあげられたことを感謝せずにはいられなかった。もう立つ気力もなかった。
白保と石垣港の中間地点でのことである。
<さようなら八重山諸島>
呆然としてると遠くからジェットスキーが向かってきた。だれだ。それは、ANAコンチネンタルホテルでビーチガードをしていた友人の鶴ちゃんだった。なんでも凄まじい波を超えてリーフに入ろうとしていた私のカヤックが(おそらく泳いで引いているのが)見えて心配になって駆けつけてくれたのだ。「いやあ、やばっかたよ?!!」なんて堰をきったように話し始めた私。唇が震えていたと思う。嬉しくてたまらなかったのだ。人と話し、ようやく自分が生きている実感が持てたのだ。鶴ちゃんも「あれを入ってこようというところがすごい・・・」と、呆れまじりの感心ぶりだった。普通ならあんなことはしてはいけないのだ。
「すぐ近くのビーチで仕事してるから寄っていきなよ」という誘いに乗り、気を取り直して数百メートル漕ぐ。
あれほどのうねりと崩れ波があるとは思えないほど道中のリーフの中は静かだった。白保からカヤックの背を押してきた強風は今度は強い向かい風となったが、生還した悦びからか何とも思わずに進んでいく。
鶴ちゃんが仕事をしていた場所、それはANAホテルのプライベートビーチだった。
真っ白な砂浜。まるで楽園だった。ついぞさっき死の
私は海にも、友人にも、あらゆる意味で感謝し楽園を後にして石垣港へ向かった。
フェリーにカヤックを預け、那覇行きの支度を終える。そして民宿まえさとのひでぼうに無事到着の連絡をいれた。鮮烈な記憶となった。
八重山諸島はほんの8日間の滞在だったが、ここでの体験がセカンドステージでの大きな力となっていく。
まぶしい空と海の感動、そして命がけの経験はおおきな財産となった。